2023年8月25日
9月10日

フィリピンバスケットボールの歴史

フィリピンバスケットボールの歴史トップ3
  • 1. 1936年ドイツオリンピック5位

    バスケットボールがオリンピックのメダル競技となったのは1936年のことである。フィリピンは、初めてバスケットボールがオリンピック公式競技として開催された際の出場チームのひとつだった。「アイランダーズ」の愛称で親しまれたこのチームは、トーナメントですぐに頭角を現した。

    大学のスター選手チャーリー・ボルクと、キャプテンのアンブロシオ・パディージャが率いるアイランダーズは、最初の2試合でメキシコとエストニアに勝利し、準々決勝に進出。しかし、大会の金メダリストとなるチームUSAに敗れ、順位決定戦に回ることとなった。その後、イタリアとウルグアイに勝利し、5位入賞を果たした。フィリピンのこの成績は、オリンピックのバスケットボールにおけるアジアチームの最高の成績である。

    2. 1954年ワールドカップブラジル大会で銅メダル獲得

    フィリピンはアジアの様々な大会でいくつものメダルを獲得してきたが、今日に至るまで、世界の舞台でフィリピンが残した最大の功績は、1954年FIBAバスケットボールワールドカップでの銅メダル獲得である。元オリンピック選手のラウロ・ムマールとカロイ・ロイザガに率いられたフィリピンは、9試合で6勝を挙げて大会を終えた。このとき敗戦した相手は、優勝のアメリカチームと準優勝のブラジルチームのみだった。

    ロイザガはこの大会でフィリピン人の実力を見せつけた。1試合平均16.4得点で得点ランキング3位に入り、オール・トーナメント・チームに選ばれた。今日に至るまで、1954年にフィリピンが達成した、ワールドカップ3位以上の成績を収めたアジアのチームはない。

    3. 2014年ワールドカップスペイン大会で世界の舞台に復帰

    それまで過去8回に渡りFIBAバスケットボールワールドカップ出場を逃したフィリピンが、ついに2014年スペイン大会で世界の舞台への復帰を果たした。ギラス・ピリピナスの名で知られるフィリピン代表チームは、2013年のFIBAアジアカップで準優勝し、バスケットボールの大舞台に戻ってくることができた。

    ギラス・ピリピナスは、フィリピンのバスケットボールのすべてを全世界に示した。グループステージ最初の4試合では、格上の相手であるクロアチア、ギリシャ、アルゼンチン、プエルトリコを相手に健闘を見せ、最後のセネガル戦では、40年ぶりに世界の舞台で勝利を収めて大会を締めくくった。

  • カルロス・ロイザガ

    カルロス・"カロイ"・ロイザガほどフィリピンのバスケットボールに大きな影響を与えた人物はいない。オリンピックに2度出場した彼は、アジア大会とFIBAアジアカップで代表チームを複数の金メダルに導き、フィリピンを世界に知らしめた。彼の最も傑出した功績は、1954年FIBAバスケットボールワールドカップでフィリピンを銅メダルに導いたことで、この大会ではオールスター・ファイブにも選出された。「Big difference(大きな違い)」の愛称で親しまれ、フィリピンがアジアで圧倒的な存在感を放つ強豪国となるきっかけを作った人物として尊敬されている。

    ロバート・ジャウォルスキー

     

    フィリピン・バスケットボールのエッセンスと情熱を余すところなく表現した選手といえば、ロバート・"ソニー"・ジャウォルスキーだろう。熱血的で、PBA(フィリピンリーグ)での23シーズンを通して彼がプレーしたチームのスローガン「Nevre Say Die」を体現した。"ビッグJ"、"生ける伝説"として知られる彼は、カリスマ的な選手として、またコーチとして、30年近くに渡りフィリピン・バスケットボールの顔だった。彼は史上最高のプレーヤーの一人であっただけでなく、史上最も人気のある選手の一人でもある。

    ジューン・マル・ファハルド

    ジュン・マル・ファハルドはフィリピンのバスケットボールの今を象徴している。このビッグセンターは、過去10年間でPBAを圧倒し、リーグで初めて6年連続でMVPを受賞した選手となった。PBA9度優勝の中心選手であり、ファイナルMVPにも4度選ばれた。「クラーケン」の異名を持つ彼は、代表チームの主力選手となった。2014年ワールドカップスペイン大会と2019年中国大会への出場権獲得を果たしたメンバーの一員でもある。